かつて私たちが誇りにしていた「安心できる場」は、
いまや“可視性”という名の地獄と化してしまいました。
思い出せますか?昔、匿名掲示板や個人ブログでは、自分の感情を自由に、素直に表現できたものです。誰もが不完全な存在としてそこにいて、たとえ感情的な文章を書いたとしても、誰かに笑われることなどありませんでした。
でも今は?あの素朴で静かな「安心空間」はすでに失われ、SNSの「いいね」や「フォロワー数」によって完全に支配されてしまいました。
友人の佐藤は、最近離婚を経験しました。ツイッターに少し気持ちを吐き出そうと思っただけなのに、投稿前に30分も推敲を繰り返しました。「共感されるか?」「注目されすぎないか?」と自問自答し、不安に駆られた彼女は、最終的に何も投稿せず、スマホの画面を閉じて静かにため息をつきました。
本来、感情を解放するはずの瞬間が、息苦しい“自己検閲”にすり替わったのです。
いったい誰が、あの温かくて安心できる場所を奪ったのでしょうか?
答えはシンプルです——「承認欲求」です。
心理学者カール・ロジャーズが提唱した「心理的安全性(psychological safety)」とは、評価されることなく、ありのままの感情や思考を安心して表現できる環境のことでした。そして、その根底には「無条件の肯定的配慮(unconditional positive regard)」という原則があります。ところが今、SNSの世界ではそれが忘れ去られ、「条件反射的な“いいね”」と「フォロー」の応酬にすり替えられてしまいました。
かつて私たちは、日記に本当の自分を書き記していました。今では、ツイッターやInstagram、TikTokにおいて、「消費される自分像」を演出するための言葉を慎重に選ぶようになっています。
SNSは、無慈悲にも、私たち一人ひとりを“自分自身のプロデューサー”へと仕立てあげました。
たとえば、いとこの美咲。彼女はInstagramに「仕事がつらくて辞めたい」と投稿したところ、100件以上の「いいね」と多くの共感コメントが寄せられました。ところが翌日、美咲はより深い不安に陥ります——「昨日の投稿は反響があった。今日も注目されるには、何を発信すればいいの?」と。
こうして、もともと自分自身のためだった感情が、フォロワーの期待に応える“商品”へと変質していきました。
これこそが、現代における最大の悲劇です。表現とは本来、自己理解と心の整理のための行為であったはず。それが、外からの「承認」や「評価」を獲得する手段に成り下がってしまったのです。
理論的には、これは「アテンション・エコノミー(attention economy)」の支配構造に基づく現象です。私たちの注意や共感は、今や経済資源と見なされ、個人の内面さえもトラフィック獲得のための“燃料”とされているのです。
最も残酷な現実はこうです。「いいね」や「フォロワー数」を気にすればするほど、心の中は空虚になっていく。表現の本質は、自己への理解を深め、他者と心を通わせること。ゲームのように点数を競うものではないはずです。
これが、SNSの巧妙な罠です。「たくさん見られれば、それが成功だ」と信じさせておきながら、その“成功”がいかに空虚で儚いかは語らない。
そして、この現象は日本文化の土壌と深く結びついています。「空気を読む」文化、「恥を避ける」習慣——私たちは感情を直接表現することに対して、無意識のうちにためらいを抱きます。代わりに、内面をパッケージ化して「表現しやすい姿」に整えることに慣れている。それこそが、SNSの注目至上主義と見事に“化学反応”してしまったのです。
大学時代の友人・真由子は、もともと極度の内向型でした。ところがTikTokで「社交不安な女の子の攻略法」シリーズを投稿したところ、数万の「いいね」がつき、フォロワーが爆発的に増加しました。周囲は「ポジティブで勇気をくれる」と絶賛しましたが、彼女は私にこう漏らしました——「本当の自分がバレるのが怖い。今の私は、どんどん嘘っぽくなっていく」。
これが現実です。表現が自由に見えるインターネットの世界は、実は私たちを「自己検閲と演出のループ」に閉じ込めている。
では、どうすれば本当の「安心できる場」を取り戻せるのでしょうか?
答えは、プラットフォームの外にあるかもしれません。あるいは、私たちの“プラットフォームとの向き合い方”そのものにあるのかもしれません。
私たちはもう一度、自分が本当に何を必要としているのかを見つめ直すべきです。「いいね」や「フォロワー数」によって、自分の価値を測るのはやめるべきです。
真の安心とは、誰かから“与えられる”ものではなく、自分自身が“奪わせない”と決める選択の中にしかありません。
だから、最後にあなたに問いたい。
あなたにとっての「安心できる場」は、今どこにありますか?
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