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沈黙は拒絶か、構造か ――斎藤環『社会的ひきこもり』を読む

沈黙は拒絶か、構造か
――斎藤環『社会的ひきこもり』を読む

文|凛子(Rinko)

ひきこもりとは、何かを拒絶するというより、何かを「話せない」状態として現れるのかもしれない。斎藤環の『社会的ひきこもり』は、この「話せなさ」に対し、病理学的ラベリングでもなく、道徳的説得でもなく、一つの関係構造として読み直す装置である。

本書の最大の転換は、「ひきこもる主体」を医療の対象ではなく、社会的システムの回路に組み込まれた一つの応答形式として捉えたことだ。斎藤はこの現象を、「個人の問題」ではなく「相互の沈黙の帰結」として分析する。その視点は、ひきこもりをめぐる言説の根底にある、「正常/異常」の境界線を問い直すものでもある。

語られない者。応答しない者。そして、その沈黙を「個人の失敗」として処理しようとする家族、学校、制度。斎藤が切り込むのは、そのすべてが「善意として作動する暴力」の網の目である。ひきこもりは、自己責任の失敗例としてではなく、むしろ「過剰にケアされた結果」生まれる沈黙だとされる。

この構図は、読者自身の感情回路にも切り込んでくる。つまり、「なぜ私は、ひきこもる人を“動かそう”としてしまうのか?」という問いが、静かに差し出される。斎藤の語りには、あえて断定を避けるような非暴力性があり、それがかえって、ひきこもりを“治すべき対象”と見る私たちのまなざしを露出させてしまう。

もう一つ、印象深いのは「思春期の終わらなさ」という時間の構造である。社会の中で「大人」として参加するには、自己語り・職業選択・他者との接続といった“通過儀礼”が必要だとされる。しかし、その構造が制度として機能不全に陥った時、「参加しない」ことは必ずしも拒否ではなく、「宙吊りにされたままの関係性」として現れる。斎藤が言う「終わらない思春期」は、むしろ“社会化の不全”ではなく、“社会化されることの暴力への感受”なのかもしれない。

では、私たちは何を変えるべきなのか――本書は決してそこに指示的ではない。むしろ、変えなければならないのは、ひきこもる人間ではなく、問いの立て方そのものだという構えである。

「なぜ出てこないのか」ではなく、「なぜ出てくる以外の選択肢がないのか」。
「どうすれば社会復帰できるのか」ではなく、「なぜ“復帰”という言葉が前提になるのか」。

そのように問いを変形することでしか、ひきこもりという現象の核心には触れられないのだと、本書は語らずして伝えている。

だからこそ、この本は「読む」ことで完結しない。むしろ、読者の中に静かな不定形の問いを残していく。ひきこもっているのは、誰か一人ではないかもしれない――そうした“構造の一部としての自分”にまで目を向けるならば、語られない沈黙の中に、別の形式の応答が潜んでいる可能性もある。

その応答は、まだ言葉になる前の、関係の布置そのものかもしれない。

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