ミソジニーは、誰の身体に宿るのか
――上野千鶴子『女ぎらい──ニッポンのミソジニー』を読む
文|凛子(Rinko)
「ミソジニー」という語は、いまや日常語に近づいている。SNS、メディア、書店、広告コピーにまで浸透し、ある種の共通言語のように機能し始めた。言葉としての普及は進んだ。では、それによって、何かは変わったのか。
上野千鶴子の『女ぎらい』は、この問いに直接答えるものではない。むしろ、「言えるようになった」その先で、何を「見なくなったか」に焦点をあてている。
本書が差し出すのは、「誰かの態度」への怒りではなく、「わたしたち自身がどのようにこの構造の維持に関与してきたか」という静かな問いである。
本書の出発点は明快だ。「ミソジニーとは、男性の感情ではなく、社会構造として繰り返される制度的習慣である」。だが上野は、その構造が“外側”にあるとは限らないことを示す。女性自身がそれを内面化し、再生産し、ときに他者に向けて行使する──そうした複雑な共謀関係が、淡々と解きほぐされていく。
たとえばメディアにおける女性像の固定化。上野はその批判を、「どう描かれているか」ではなく、「なぜその描写が何度も機能するのか」という構造の反復性に向ける。
「なぜ“わかりやすい女性像”が歓迎され続けるのか」。
「なぜ暴力が“語られる以前に理解されたもの”として処理されてしまうのか」。
本書はこうした設問によって、「構造」の顔を持たないまま働いている力を、読者に可視化させようとする。
最も読み手に沈黙を強いるのは、「母娘関係」の分析かもしれない。
父から母への侮蔑が、母から娘へと伝達され、結果的に「女性という存在」が“嫌われるに値する存在”として維持される。ここには感情ではなく、役割の継承がある。
ミソジニーとは、敵意ではなく、配分された語りの枠組みである。
そして、そうした“語り方”は、自身の口から発されるときでさえ、すでに誰かから借りてきた言葉である場合がある。
上野は、それを「否定」するのではなく、言葉がどう組み合わされ、どのように自動的に出力されてしまうかを、読者に再帰的に確認させる。
『女ぎらい』を読んでも、すぐに「何をすべきか」は見えてこない。それはこの本の弱さではなく、強さである。なぜならこの本は、「立場を示せ」とは言わず、「あなたの判断は誰の言語規則に沿っているのか」と問いかけてくるからだ。
たとえばこういうとき。
「彼女は少し被害者意識が強すぎる」と感じたその瞬間。
「女性はもっと穏やかなほうが…」と無意識に思ったとき。
「私はそんなに敏感じゃないから」と言い訳したとき。
その言葉は、本当に“自分”の判断だったのか。
その基準は、どこから与えられたものだったのか。
上野は、それを「否定」するのではなく、「再検証の技術」として差し出している。
ミソジニーという言葉を知ることは、誰かを糾弾する準備ではない。むしろ、「自分が構造のうちにいた」ことに気づき直す契機であるべきなのだ。
この本は、誰かを変えるためのものではない。
読む人自身の「読み方の構造」を、静かにずらすための本である。
「わたしはもう分かっている」という感覚こそが、最も深く埋め込まれたミソジニーかもしれない。
だからこそ、本を閉じたあと、言葉が少し出にくくなる。
その沈黙の中にだけ、この問いは生き残るのだ。
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